【岡潤一郎の落馬事故】武豊のライバルになる存在だった男の軌跡

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現在の競馬界で誰もが知るジョッキーといえば「武豊騎手」ではないでしょうか?デビューの年に当時の新人最多勝記録を更新して、2年目の菊花賞でGIを制覇。3年目で全国リーディングを獲る。その後も活躍を続けJRA全国リーディングジョッキーは歴代最多となる18回獲得、騎手大賞は歴代最多となる9回を獲得。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録、歴代最多騎乗数記録、ダービーを最多の6勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、日本競馬界のレジェンドと称されているほどの日本を代表する騎手ですが、そんなレジェンド武豊騎手のライバルとなる存在になっていただろうと言われるのが岡潤一郎です。岡潤一郎がいたらもしかしたら今の武豊騎手の輝かしい実績が作られていなかったかもしれません。それだけジョッキーとして優秀であった岡潤一郎さんの過去を振り返ります。

岡潤一郎騎手の戦績

1988年に栗東トレーニングセンターの安藤正敏厩舎所属の騎手としてデビューをしました。3月5日の阪神競馬第2競走のダイタクゲニー号」で初騎乗し7着でした。。3月20日の阪神競馬第12競走のトーヨーシンゲキで17戦目にして初勝利。同年に44勝を挙げJRA賞最優秀新人賞を獲得しました。

1989年には46勝をあげる大活躍をするのですが、この年の6月18日の札幌競馬で5連続騎乗勝利を挙げました。この記録は2005年11月5日に横山典弘騎手が6連続騎乗勝利を挙げるまでの約16年間JRA記録として破られることなく残っていました。

1990年、ユートジョージ号に騎乗したNHK杯で初の重賞制覇をおさめます。その同年の宝塚記念ではあの有名な「オグリキャップ号」に騎乗しています。結果は2着でした。翌年の1991年にリンデンリリー号でエリザベス女王杯を制し初めてのGIタイトルを獲得しました。しかしゴール入線後に馬が故障となり、愛馬のいない中での表彰式となってしまいました。また、結果的にはこれが騎手生涯唯一のGI勝利となってしまいました。

岡潤一郎が落馬、そして死去

1993年1月30日の京都競馬第7レース4歳新馬戦でオギジーニアス号で騎乗で事故は起きました。4コーナーで同馬が左後脚に故障が発生し、バランスを崩して馬が転倒するとそのまま岡潤一郎も落馬をしてしまいました。その転落の衝撃でヘルメットがずれ、そのヘルメットのない頭部を後続の馬の脚が直撃するという大事故になりました。救急搬送されましたが、、外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、脳内出血によって意識不明の重体に陥ってしまい、2月16日午後0時57分に亡くなってしまいました。まだ24歳という若さでした。

不運に不運が重なった事故でした。馬は人を踏まない習性がありますから、踏みそうになったら避けるわけです。今回の事故は衝撃でヘルメットがズレ、その箇所に後続の馬が自然に走っている中で蹄が直撃したものと考えれます。それだけでも不運なのですが、実は岡潤一郎はこのレース、オギジーニアス号に騎乗する予定は元々なく急遽決まった騎乗だったのです。本来は、藤田伸二騎手が予定されていました。それが自厩舎の都合で府中競馬場にいくことになり、岡潤一郎に鞍が変わったのです。もしかしたら、突然の騎手がかわったことで馬も違和感を感じていたのかもしれませんね。本当に不幸な事故でした。

レース中の落馬が原因による死亡事故は、近年の医学の進歩により少なってはいるようですが、過去には多くの騎手が落馬で亡くなっています。1949年以前には7名、1950年代では8名、1960年代では9名、1970年代は6名、1980年代以降では8名と38名もの方がなくなっており命がけで騎乗していることがよくわかります。岡潤一郎は33人目の犠牲者となっています。死亡直後に告別式が行われていますが、この告別式は競馬ファンにも開放され、多数の弔問者が訪れたようです。

わずか5年余りの騎手生活で、通算勝利数が225勝を挙げています。1年間の平均にすると年間45勝していたことになります。うち、重賞勝利数が5勝。G1勝利数が1勝となっています。

岡潤一郎の同期

岡潤一郎は昭和63年の4期生になります。同期は以下になります。

 

トレセン 氏名 出身地
栗東 内田 浩一 千葉県
栗東 岡  潤一郎 北海道
美浦 菊澤 隆徳 千葉県
栗東 岸  滋彦 滋賀県
栗東 千田 輝彦 神奈川県
美浦 藤原 英幸 埼玉県
美浦 町田 義一 茨城県
美浦 横田 雅博 千葉県

参考元:https://www.jra.go.jp/school/about/graduates/

岡潤一郎は結婚し嫁はいたのか?

岡潤一郎は独身で妻子はいません。ただ、検索をすると『岡潤一郎 嫁』という検索キーワードがあがってきます。この要因と考えられるのが、1994年4月25日に競馬学校同期生の菊沢隆徳が結婚式を挙げています。その際に招かれた騎手達の席のひとつに、亡くなった岡潤一郎の席が設けられていました。このことから、情報が錯誤しそのような検索がされてしまったと思われます。期待された騎手で見た目立ちもイケテいたのでステキな女性と結婚されたことでしょうね。。。

岡潤一郎と武豊の関係

岡潤一郎は昭和63年の4期生になりますが、武豊は昭和63年の3期生にあたります。可愛い後輩として仲良くしていたかは定かではありませんが、夏の北海道にいくと会いたくなるということで、年に数回岡潤一郎のお墓参りに行っていると武豊日記で綴っています。

岡潤一郎のお墓

岡潤一郎騎手のお墓は、彼の出身地である北海道様似郡様似町(さまにぐんさまにちょう)にあります。太平洋に面した静かな町です。小高い丘の海が見渡せる墓地にあり、岡潤一郎騎手が亡くなってから30年近く経っていますが、今でもファンが墓参りに訪れるそうです。似郡様似町の市役所に問い合わせれば、お墓の場所を教えていただけるようです。それだけ岡潤一郎騎手が、地元の人にもファンにも今もなお愛されている証拠なのかもしれません。

まとめ

岡潤一郎は、17戦目にして初勝利し、同年に44勝を挙げJRA賞最優秀新人賞を獲得しました。1989年には46勝をあげる大活躍し、この年の6月18日の札幌競馬で5連続騎乗勝利を挙げ約16年間JRA記録として破られることなく残っていました。

1990年にNHK杯で初の重賞制覇をおさめ、翌年の1991年にリンデンリリー号でエリザベス女王杯を制し初めてのGIタイトルを獲得しました。しかしゴール入線後に馬が故障となり、愛馬のいない中での表彰式となり結果的にはこれが騎手生涯唯一のGI勝利となりました。

1993年1月30日の京都競馬第7レース4歳新馬戦の騎乗で落馬をし、その際に馬の蹄が頭部にあたり意識不明の重体。そのまま2月16日に帰らぬ人となってしまいました。わずか5年余りの騎手生活で、通算勝利数が225勝を挙げ、重賞勝利数が5勝。G1勝利数が1勝でした。

岡潤一郎は結婚はしておらず、武豊騎手は1期上の先輩でした。武豊騎手は今でも北海道様似郡様似町(さまにぐんさまにちょう)にあるお墓に年に数回お墓参りをしているようです。

多くのかたに愛された岡潤一郎さんのご冥福を心からお祈り致します。

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